万葉の花 flower story

2019 / 05 / 30  16:33

「紫陽花」(6月あじさい)

ユキノシタ科。日本原産。(手毬花、七変化、七段花ともいう)

幹は叢生、高さ1.5m、葉は広卵形で対生。

初夏に球状の集散花序に4枚の萼片だけが発達した装飾花を多数つける。

色は白色もあるが、青から赤紫へ変化するところから「七変化」ともいう。

ガクアジサイ、ヤマアジサイ(含むアマチャ)、エゾアジサイなどがあり、

ノリウツキ、コアジサイ、タマアジサイもあじさいの仲間。

あじさいの語源は、藍色の花があつまって咲く様子から、

「あづ(集まる)」と「さい(真藍サイ)がつまったもの。

花は解熱剤、葉は瘧(オコリ。おもにマラリアなど)の治療薬となるが、生のままでは毒性が強く、飲食物に添えての使用には注意が必要である。

よく使われる「紫陽花」は中国産の別種のもの。英名ハイドランジア。

シーボルトの『フローラヤポニカ(日本植物誌)』には「オタクサ」として紹介されている。

シーボルトあじさい.jpg

シーボルトの『フローラヤポニカ(日本植物誌)』(京都大学デジタルアーカイブより)

2019 / 05 / 30  16:05

「水無月」(6月あじさい)

陰暦六月の異称。「な」は「ない」の意の「無」の字があてられるが、

本来は「の」の意味で、「水の月」。

この月に田に水を引く必要がある月から「田水之月」(タミノツキ)がつまったもの。

英語でJuneは、ローマ神話のジュピター(ギリシア語でゼウス。ラテン語でユピテル。英語でジュピター。最高神、雷神、絶倫万能の神)の、妻ジュノー(ギリシア語でヘラ。ラテン語でユノ。英語でジュノー。ゼウスの姉で正妻。婚姻と母性の神)からつけられたもの。

花嫁月といわれる。

ギュスターヴ・モロー作《ユノと孔雀》.jpg

 ギュスターヴ・モロー作『ユノと孔雀』

 

2019 / 05 / 01  10:38

「大伴家持 薬猟」巻十七3921(5月かきつばた)

 かきつばた 衣に摺りつけ 丈夫(ますらお)の

 きそい猟(かり)する 月は来にけり

  大伴宿禰家持(巻十七 3921)

東慶寺「日本の工芸シリーズ」 2013年 染司よしおか展 「菖蒲と杜若の色」.jpg

(東慶寺「日本の工芸シリーズ」 2013年 染司よしおか展 「菖蒲と杜若の色」)

<訳>

青紫色の杜若の花摺り衣で着飾った立派な男たちが、夏野を競い合うようにして薬狩りをする華やかな月がやってきたことだなぁ。

<背景>

天平十六(744)年4月5日、独り平城の旧宅において青年であった家持が詠んだ歌。この歌は五月五日の端午の節句にちなむもので、今日の成人式に当たるものと考えられる。また、一人前の男女として儀式的な意味合いをもち、とりわけ恋を成就させることを第一義と考えられていた。家持は華やかな薬狩の日が近づいたのを喜んだのではなく、それをよそにして独り平城の宅にいる淋しさを詠っている。

大伴家持

717(?)〜785年。奈良時代の歌人。三十六歌仙のひとり。大伴旅人の子。越中守(746年6月)をはじめ、中央・地方諸官を歴任。延暦二(783)年中納言。万葉集中歌数最も多く、その編纂者のひとりに擬さられ、繊細で感傷的な歌風は万葉集後期を代表する。

2019 / 04 / 30  12:24

「皐月」「杜若」(5月かきつばた)

「皐月」(さつき)

旧暦五月の別称。田植えもしくは田植月(五月)をサツキという。

サツキのサは早乙女のサと同様に田の神を意味したといわれる。早苗月、五月雨月、幸月ともいわれる。

英語のMayは古代ローマの神マーキュリーMercuryの母マイアMaia(春の神)を

5月1日に奉ったことから名付けられたとされており、また当時は4月28日から5月2日までは

花の神フローラFloraを讃える祭りの日とされた。

 

「杜若」(アヤメ科の多年生草、日本原産)

古くは衣類の染料として「書付け花」の名で呼ばれた。

さらに「カキツバナ」となり「カキツバタ」に転訛した。

万葉の時代から詩歌に詠まれ、鮮やかな緑の長葉の間から紫色の優美な花を咲かせる姿は

いかにも日本的な美しさを感じさせた。

早春から番州にわたり時季ごとに違った風情を見せる。

菖蒲(アヤメグサ)が男性に例えられるのに対し、杜若は女性に例えられる。

アヤメ菖蒲杜若.jpg

千葉県香取市 水郷佐原あやめパーク

2019 / 04 / 29  13:40

「端午の節句」「薬狩」(5月かきつばた)

「端午の節句」

中国では古来より、端午の日(旧暦五月の最初の午の日)に野に出て薬草を摘み、

野遊びや舟競渡を行い、蓬()で作った人形や虎を戸口や軒にかけたり、

粽(ちまき)や柏餅を食べたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりなど、

厄災を祓うための行事が行われていた。

中国から日本にこの行事が伝来し、

「日本書紀」には推古十九(611)年五月五日に、

菟田野(奈良県の宇陀の大野という意味)で薬猟をしたと記される。

推古期頃から宮廷行事に取り込まれ、天武期以降定期的に行われるようになった。

聖武期になると走馬や騎討などが盛大に催され、宴では田舞が行われた。

「推古天皇の薬狩り」星薬科大学の壁画.jpg

「推古天皇の薬狩り」星薬科大学の壁画(くすりの博物館 もうひとつの学芸員室より)

 

「薬狩(猟)」

中国から伝来した端午の節句が、

日本でも推古天皇(611年)の頃から宮廷行事に取り込まれ、

菖蒲や蓬の蘰(かつら、つる)をつけて不浄を祓い健康を祈った。

天武朝以降は定期的に行われるようになった。

また、中国伝来の採薬習俗の影響を受け、

節日である五月五日に採取した薬品は特効があるとされていた。

狩の衣服を整えて山野に出て、男性は鹿を猟りしてその若い角(鹿茸ロクジョウ)を採り、

女性は薬草を摘む。「薬狩」と称して華やかに行われた。

狩猟ではあるが、遊楽的な色彩が強く、「薬狩」ののちに盛大な宴が催された。

しかし奈良時代(710年以降)には殺生禁断政策の影響もあって形骸化し、

宮門付近で行われる騎射(ウマユミ。流鏑馬の類)へと変化していった。

1 2 3 4