万葉の花 flower story
「端午の節句」「薬狩」(5月かきつばた)
「端午の節句」
中国では古来より、端午の日(旧暦五月の最初の午の日)に野に出て薬草を摘み、
野遊びや舟競渡を行い、蓬()で作った人形や虎を戸口や軒にかけたり、
粽(ちまき)や柏餅を食べたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりなど、
厄災を祓うための行事が行われていた。
中国から日本にこの行事が伝来し、
「日本書紀」には推古十九(611)年五月五日に、
菟田野(奈良県の宇陀の大野という意味)で薬猟をしたと記される。
推古期頃から宮廷行事に取り込まれ、天武期以降定期的に行われるようになった。
聖武期になると走馬や騎討などが盛大に催され、宴では田舞が行われた。
「推古天皇の薬狩り」星薬科大学の壁画(くすりの博物館 もうひとつの学芸員室より)
「薬狩(猟)」
中国から伝来した端午の節句が、
日本でも推古天皇(611年)の頃から宮廷行事に取り込まれ、
菖蒲や蓬の蘰(かつら、つる)をつけて不浄を祓い健康を祈った。
天武朝以降は定期的に行われるようになった。
また、中国伝来の採薬習俗の影響を受け、
節日である五月五日に採取した薬品は特効があるとされていた。
狩の衣服を整えて山野に出て、男性は鹿を猟りしてその若い角(鹿茸ロクジョウ)を採り、
女性は薬草を摘む。「薬狩」と称して華やかに行われた。
狩猟ではあるが、遊楽的な色彩が強く、「薬狩」ののちに盛大な宴が催された。
しかし奈良時代(710年以降)には殺生禁断政策の影響もあって形骸化し、
宮門付近で行われる騎射(ウマユミ。流鏑馬の類)へと変化していった。
新元号「令和」の典拠 「万葉集」巻五 815
[曼朱院本]萬葉集の巻五 梅花謌卅二首并序(梅花の歌 三十二首、并せて序) / 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
<書き下し文>
初春の令月にして(はつはるのよきつきにして)
気淑く風和ぎ(きよくかぜやわらぎ)
梅は鏡前の粉をひらき(うめはきょうぜんのしろきものをひらき)
蘭ははいごの香を薫らす(らんははいごのこうをかおらす)
<訳>
梅の花の歌32首併せて序文
天平二(730)年正月十三日
筑紫太宰府の長官の老人(大伴旅人)の邸で盛大な観梅の宴が開かれた。
時はあたかも初春の素晴らしい月である。
あたりの気配は快く風は穏やかである。
花咲く梅は鏡に向かって美女が粧うおしろいのように白く咲き、
貴人が帯にさげて粧う香袋のように蘭の香りがたおやかに薫っている。
注)珮は佩に同じ、大帯のこと。嚢(のう)に香を入れて腰に下げた。
「梅」(新元号「令和」について)
梅 (バラ科サクラ属の落葉高木)
中国中央アジア原産。日本には奈良時代に遣唐使によって持ち帰られた。
「万葉集」では、「うめ」(宇米、有米、鳥米、宇梅、于梅)と表記されるが、
平安時代には「むめ」の形が多い。「梅」という外来語の中国語音meiを
「うめ」「むめ」と日本語音の体系に取り入れて表記したことに基づくため。
中国では、高い香りを発しつつ、操をかえないことから「君子の象徴」とされ、
一重白梅、香気の高いものが第一とされた。
日本にあっても舶来の植物として大陸の雰囲気を漂わせた梅は、食用薬用の実用木と同時に、
鑑賞木として貴族階級や文化人に珍花としてもてはやされた。
梅の寓意は、清らかで清楚なイメージから「君子」の他に、
厳寒をめげず花を咲かせる性質から「節操」「清友」「厳寒の盟」、
総ての花に先駆けて咲くところ「花の魁」「東風第一及」などと呼び、人々に讃えられた。
「万葉集」には萩137首についで梅119首と、桜の40余首に比べて花の中で圧倒的に多い。
当時「梅」といえば雪まがう「白梅」が主で、「紅梅」及び「その香り」が主役になるのは
平安時代になってからである。
「大伴旅人 梅花の宴」(新元号「令和」について)
<背景>
天平二(730)年正月13日、筑紫太宰府の長官 大伴旅人の邸で、盛大な観梅の宴が開かれた。
筑前守 山上大夫(山上憶良)はじめ、小野老、粟田大夫など、筑紫の国司や大宰府官人たち
32名が集まり、梅の花の美を賞で、皆で32首の歌を詠んだ。
このときの宴会はいわゆる「梅花の宴」と称され自然の景物が雅やかな目で捉えられ、
官人貴族たちの宴席を彩るようになった画期的な催しとされる。
序文は漢文。歌はヤマトコトバ。
=参考=
梅花の宴の当日主催者である大伴旅人の歌
わが苑に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも
主人 (アロジ)(巻五 822)
訳)私の庭園の梅の花が頻りに散っている。
いやあれは梅の花ではなく、はるか大空から
雪が舞い降りてきているのではなかろうか。
まことに綺麗なことだ(落花のおもしろさを詠んでいる)
◎大伴宿禰旅人
万葉第三期の歌人。天智天皇四(665)年、壬申の乱で功績を上げ、佐保大納言と呼ばれた
大伴安麻呂の長男。大伴氏は古来から物部氏と共に武門を司る日本有数の名門旧家と考えられている。
旅人も名門貴族の長として中央にあったが、新興勢力である藤原氏の圧迫を受けるようになり、
神亀五(728)年に太宰府の帥として筑紫に下った(64歳)。筑紫下向は左遷に近い意味を持っていいた。
筑紫にあって旅人は文雅の世界に強く傾倒した知識人としての素養を発揮し、山上憶良らと文学上の交流を深め、
いわゆる筑紫歌壇の中心人物となる。天平二(730)年の冬に大納言として帰京を果たすが、
翌天平三年七月二十五日(731年8月31日)、67歳でなくなる。妻は大伴郎女。家持、書持の父である。
「大伴旅人」(菊池容斎画、明治時代)
2017年 新春を賀ぐ花迎え

謹んで新春のお慶びを申し上げます。
本年も皆様にとって麗しく彩り多き一年となりますようお祈りいたしております。
お正月は「歳神様」をお迎えし、新しい年のまたさらなる豊穣をお祈りする節句です。
その神様が影向する依代として、常盤木である松や杉を立てるひとつの形が「門松」です。
ホテルオークラ東京では、松飾りに加えて、各フロアのエレベーターホールに、お正月の最上格花である万年青をいけてございます。
是非ご覧くださいませ。